「長丘古史考。」

 福岡藩の藩儒、貝原益軒が江戸中期に編纂した筑前の地誌、「筑前国続風土記」の那珂郡に「高宮岩屋」の項がある。
 「高宮岩屋、高宮村の西南十町の山の半腹にあり、窟の口、南に向ふ。内に三の間あり、奥の正面大盤石に仏像を刻めり。中位は阿弥陀、左右に観音、勢至あり。(中略)此地むかしに替り、荘厳新にして佳境となる。拝屋の内、石階の上よりむかひを望めば、南山高くつらなりて、景すぐれてうるはし。参詣の人、遊覧の客多し。民家遠く、俗塵をはなれたる閑寂の地なり。」と記される。

 高宮岩屋とは、長丘に隣接する寺塚の興宗寺境内にある「穴観音」のこと。古墳の石室の盤石に阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩が彫られている。彫られた時代は不明であるが、古くから穴観音と呼ばれて、多くの民の信仰を集めた。
 この古墳は古墳後期(6世紀)の巨石墳とされる円墳。近辺に在った氏族の首長墓とされる。

 また「百塚」の項には、「岩屋観音の西北の高き所にあり。平尾村の境内なり。是、また内に穴ありて、皆、南に向へり。その間、二十間、あるいは遠近有りて、南より北の方に相つらなれり。その数、多き故に百塚と号するならん。むかし福岡の城を築き給ひし時、此の塚をこぼちて、其の石をとりし所はくづれて、穴なきも多し。」と記される。
 穴観音の西北の高地とは寺塚から長丘2丁目あたりの斜面であろうか。古墳が群集して百塚と呼ばれたが、福岡城の築城時にそれらの石室が破壊され、石材として持ち去られたため今は痕跡も残らないという。
 江戸期には俗塵をはなれた閑寂の里であったこの地が、古墳期にまで遡れば、古代氏族が跋扈する殷賑な地であった。穴観音を通してこの地域の歴史の奥深さを窺い知る。

 福岡平野は列島開闢(かいびゃく)の地であるとされる。この平野は大陸や韓半島から稲作をはじめとする文化が、最も早く齎された地。その起源は日本最古級の水田跡「板付遺跡」などが縄文晩期より営まれることに始まる。
 3世紀の様子を記した魏志倭人伝にいう奴国の中枢とされる弥生王墓「須玖岡本遺跡」や、弥生前期に始まるわが国最古のクニとされる「吉武高木遺跡(早良王墓)」などの存在が、列島で最も早く形成された国家の痕跡を見せる。後漢の光武帝から与えられた金印が、志賀島から出土するのもその証(あかし)であろう。

 福博の町はふたつの入り江に始まる。ひとつは「那ノ津(なのつ)」。のちに「冷泉ノ津」とも呼ばれる。那ノ津は現在の那珂川の流域。古代からの大陸や韓半島との交流や軍事の拠点である。中世には自治都市として繁栄する博多の中枢となった入り江である。
 太古の博多はこの那ノ津の湾口に発達した海中(うみなか)の砂洲にはじまるとされる。貝原益軒はその「住吉の辺」こそ、日本書紀にいう、伊耶那岐が禊を行った「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)」であるとした。そして、その浜で綿津見神や住吉神が生まれたとする。

 弥生早期の福岡平野の中枢とされる、板付遺跡や比恵遺跡などの稲作集落は、この那ノ津と御笠川に挟まれた段丘上に派生している。のちの時代、この段丘には初期古墳の那珂八幡古墳をはじめ、大和王権に由来するとされる東光寺剣塚古墳、剣塚北古墳など、福岡平野を代表する前方後円墳群が築造される。
 那ノ津の南方の春日丘陵には、奴国の中枢「須玖岡本遺跡」が在る。かつての入り江の畔(ほとり)とされる。

 「津」とは本来、湊の意。那ノ津は大陸、韓半島との外交の舞台であった。弥生期の57年、後漢の光武帝は那ノ津の覇王、奴国王に金印を与え、大和王権の黎明期には神功皇后がこの津より三韓征伐に向かったとされる。
 日本書紀によると、古墳後期の536年、大和政権は磐井の乱ののち大宰府の前身とされる「那津官家(なのつのみやけ)」をこの入り江の最奥、現在の大橋のあたりに設置して外交、防衛にあたらせている。今も三宅(みやけ)地名や、通詞を意味する曰佐(おさ)、食糧庫である老司(ろうじ、粮司)などの関連地名を散見する。
 その後も、遣隋使や遣唐使の派遣、 斉明天皇の西下、天智期の百済救援など、那ノ津は常に国家的外交の舞台であった。そして白村江の戦いの翌年、664年に行政機能は内陸の大宰府に移り、那ノ津の畔には外交、防衛の拠点としての「筑紫館(つくしのむろつみ)」が設置され、平安期以降には「鴻臚館(こうろかん)」とされた。

 古代は縄文海進以降の海面上昇期であり、それが那珂川や御笠川が搬出する土砂の堆積により那ノ津は徐々に陸化している。海成層の堆積からは、入り江の殆どの域は汽水域の干潟であったとみられている。
 大宰府管内誌に「此辺の入海、船舶の遠くなるにつけて、那津の人家をも北方にうつして終には博多の津に至れり。」と記され、また、前述の「比恵遺跡」からは6、7世紀の大型の掘立柱建物群や多数の倉庫跡が出土して、入り江の陸化に伴い、那ノ津の中枢が徐々に北に移動していった状況を見せる。

 博多区の住吉神社に残された鎌倉期のものとされる博多古地図によると、平安末期に平清盛が那ノ津の湾口に築いた日本初の人工港「袖の湊」が記され、その南には博多の街区。街区の端、入り江の畔(ほとり)には櫛田神社が鎮座する。御笠川の河口を隔てた岬には住吉神社が鎮座し、蓑島(美野島)が浮かぶ。鎌倉期には入り江は既に高宮あたりまで陸化している。
 
1、住吉神社 博多古図2
(住吉神社の絵馬に残された鎌倉期の博多古図)

 もうひとつの入り江は「草香江(くさがえ)」である。草香江は現在の樋井川の流域、かつて、大濠から草香江、田島のあたりに広がっていた入り江である。早良郡志には「樋井川村北部の地は往古、海水深く湾入していた。」とある。のちに「千賀浦(ちかうら)」とも呼ばれ、草香江、荒江、片江、田島などの地名にその痕跡を残す。那ノ津と同じく、殆どは汽水域の干潟であったとみられる。
 「筑前国続風土記」は草香江は鳥飼村の東に在ったとする。1281 年の弘安の役を描いた「蒙古襲来絵詞」の中に竹崎李長が元軍と戦った「鳥飼の干潟の塩屋の松」という場所がある。この塩屋の松が現在の「塩屋橋」付近とされ、当時の草香江の西岸とみられる。

 弥生、古墳期あたりの遺跡などを参考に、古代の草香江の沿岸線を想定すると、南に広がる入り江の中央には田島が浮かび、その奥で入り江は東西に分かれる。
 西の入り江は友泉亭あたりから内陸に入り込み、その南端は片江の近くにまで達していたとみられる。
 そして「長尾」地名の由来ともされる油山から伸びた細長い丘陵が、現在の長尾小学校あたりを岬の突端として入り江に突出する。その岬の東にも狭小な入り江があったとみられる。
 地名との関係をみると、このあたりの海岸線は中世の頃まで大きな変動は無かったように思われる。
 古代は縄文海進以降、徐々に陸化するのであるが、8世紀から12世紀にかけての平安海進(ロットネスト海進)での海面の微上昇もあり、那珂川や御笠川に比べ、樋井川の流量は少なく、土砂の堆積も遅いため、草香江はゆっくりと陸化したようである。
 そして黒田家の筑前入部とともに草香江はその姿を変える。初代藩主、黒田長政は福岡城の守りを強化するために、草香江に流れ込んでいた樋井川の流れを西に向け、福岡城の外堀とした。草香江は一気に陸化し、現在の大濠を残すのみとなり、現在の姿になったようだ。

 草香江周辺には古代の遺跡が多い。上長尾の樋井川中央公園がある高台に「樋井川遺跡群」がある。ここは縄文中期から弥生期に至る大規模な集落跡。また長尾の岬の対岸、神松寺の丘陵地帯にも「神松寺遺跡」や「浄泉寺遺跡」「修道院内遺跡」などの古代の集落跡がみられる。のちの時代、この丘陵上には神松寺古墳や神松寺御陵古墳などが築造されている。
 そして、入り江の最深部とされる「片江遺跡」では弥生期から古墳期に到る大規模な住居址、甕棺墓群、水田址などが出土している。また、鉄鉱石を使った古代の製鉄の痕跡をも残す。古代の草香江の沿岸には、海に拘わる古代人が跋扈していた痕跡がみえる。

 西の室見川の流域には、古く「早良の浅海」とも呼ばれる干潟が広がっていたとみられる。太古の草香江は、祖原や高取あたりの岬を隔てて、この浅海にも繋がっていた。対岸には、前述の日本最古のクニとされる「吉武高木遺跡(早良王墓)」がある。
 この遺跡で出土した王墓とされる金海式甕棺墓は韓半島に拘わるとされ、同じく半島に起源をもつ多鈕細文鏡が副葬されていた。太古のこの地の民は、韓半島と強い繋がりを持った人々であったとされる。
 応神期に韓半島に渡り、渡来人、弓月君らを連れて帰国した「平群木菟(へぐりのつく)」が、佐和良(さわら)臣の祖とされ、早良に平群郷の名を残すことにも韓半島との拘わりをみる。

 古く「長丘」は早良郡の長尾村(下長尾村)のうちであった。この早良郡の「さわら」は、古くは「佐和良」などの字が宛てられ、「麁原(祖原、そはら)」をその古名とするとされ、韓半島の首都を意味する「ソウル」の転化であるともいわれる。
 那ノ津が大和政権の大陸や半島との外交、交渉の舞台であったのであれば、草香江あたりはそれ以前の古い時代、韓半島よりの氏族の渡来と文化の移入の舞台であったのかも知れない。

 また、草香江は神話の謎を秘める地でもある。貝原益軒は「筑前国続風土記」で草香江が「日下(くさか)江」であろうとしている。
記紀において、日向を発した神武天皇が「日下(ひのもと)」の天皇とされ、神武天皇の上陸地が河内の「日下(くさか)の蓼津」とされ、河内の「草香江」の奥であった。同名の入り江が河内にあり、額田(野方)や平群、柏原、太平寺など、河内の日下や生駒周辺と早良郡域の地名の共通をみせる。貝原益軒は河内の草香江とこの筑前の草香江が、何らかの拘わりがあろうことを匂わせている。
 
2、博多往古図
(鎌倉期から室町期の博多を描いたとされる博多往古図)

 そして、那ノ津と草香江のふたつの入り江(津)を繋ぐ地が、奇しくも「長丘」の地である。筑紫館や鴻臚館が築かれた博多湾岸の中枢「福崎」の丘陵は、この那ノ津と草香江のふたつの入り江に挟まれて、半島の体(てい)で博多湾に突出していた。福崎の沖、荒津山からは左手に防人の島、能古島。右手前方に志賀島を望む。その先には玄界灘が洋々と広がり、彼方は韓半島、大陸。
 そして、この福崎の丘陵から赤坂山、大休山、平尾山と南に続く低山帯は「鴻巣山(こうのす)」に到る。鴻巣山の南麓に広がる「長丘」は殊にこの半島の付け根。

 かつて「百塚」と呼ばれた鴻巣山南麓の大古墳群の存在が、古代のこの地が殷賑な里であったことを窺わせ、この地に在った氏族が那津官家や、古く韓半島に由来する草香江の海人に纏わり、何らかの機能を持っていたとも思わせる。
 日本書紀によると、飛鳥期の660年、百済が唐と新羅によって滅ぼされるや、斉明天皇は百済を援けるために中大兄皇子(天智天皇)らを率いて那ノ津に至り「磐瀬宮(いわせのみや)」に入る。
 この「磐瀬宮」の所在は未だに確定されてはいない。が、若久のあたりより流れ出て、野間、高宮を流れる四十川が古く、「磐瀬川」と呼ばれ、高宮の地、大楠3丁目に磐瀬地名に纏わる「磐瀬公園」があり、故に「高宮」の地名はこの磐瀬宮に因むともいわれる。

 高宮山上に鎮座する「高宮八幡宮」の縁起によると、天智天皇の御代、天皇が磐瀬宮に在った折、神功皇后の縁(ゆかり)の地として八幡神を祀ったとされる。のちの平安期、岩戸少卿、大蔵種直が社殿を造営、平安末期の1190年頃、大蔵氏の裔、原田氏が社を「宮の尾」の山上に移し、高宮、平尾、野間の三村の氏神、那珂郡の惣鎮守としたという。
 縁起に記述される「宮の尾」地名が、八幡宮鎮座以前に鴻巣山系の尾根の東端、那ノ津を見おろす山上に磐瀬宮が置かれ、高宮とされたことを示すのであろうか。
 新羅の脅威が迫る中、防御に優れた山上に宮を置いたとも考えられる。のちに斉明天皇はより内陸の「朝倉橘広庭宮」に遷幸している。そして、斉明天皇の死後、中大兄皇子は磐瀬宮で百済救援軍を整え、韓半島に送り出している。

 「宮の尾」の南麓、旧野間中村町に6世紀後半から7世紀に到る大型居館の跡が出土している。丁度、磐瀬宮に斉明天皇や中大兄皇子が在った時代であり、磐瀬宮に由来するものとも思わせる。

 また、8世紀の奈良、平安期には大宰府政庁より水城西門を経て、筑紫館(鴻臚館)へ通じる古代官道が野間、高宮の地を通り、「延喜式」にいう石瀬駅家(いわせのうまや、磐瀬)がこの地であろうことを思わせる。
 そして「延喜式」の駅家の所在によると、石瀬の次に額田(野方)があり、大宰府から、松浦に通じる古代官道「壱岐、対馬道」が在ったとされる。
 石瀬より西に分かれた壱岐、対馬道は宮の尾から鴻巣山の麓を西に向かい、早良を抜けて額田駅、深江駅へと通じていたと思われる。奈良、平安期のこの地は交通の要所でもあった。

 「鴻巣(こうのす)山」は、むかし、山上に生えていた松の木にコウノトリが巣を作ったという伝承が名の由来ともされる。
 鴻臚館の「鴻(こう)」とは大きな鳥の意から転じた「大きい」の意という。「臚(ろ)」は腹の意から転じた告げる声の意。漢、唐の書に拠ると「鴻臚(こうろ)」とは「鴻声臚伝」の略で、外交使節の来訪を告げる大きな声のことであるという。
 鴻巣山の「鴻」が鴻臚館と字を同じくし、この半島が「大きな鳥」を意味する名を纏ったものともみえる。そして、鴻巣山の名は「大きな巣(宮)」の意ともとれよう。長丘の里は鴻巣山の麓にあって、歴史の微かな息遣いを我々にみせてくれる。(荒木)


◎参考図書
福岡の歴史(福岡市史普及版)、古代の都市、博多(朝日新聞編)、早良郡志、樋井川村史、筑前国続風土記、筑前国風土記拾遺、和名類聚抄など