「福岡県の地名」(日本歴史地名体系41・平凡社)、「角川日本地名大辞典40福岡県」および「南区ふるさと」(福岡市南区民俗文化財保存会)より

南区
 古代から近世まで区域の大部分は那珂郡に属し、西部樋井川沿いの地域は早良郡に属した。近世後期には那珂郡18カ村、早良郡3カ村からなり(続風土記拾遺)、全村が福岡藩領で、文化9年(1813年)には那珂郡の村のうち4カ村が中原村触、14カ村が塩原村触に属した(郡方覚)。
 明治22年(1889年)の町村制施行により那珂郡三宅村、日佐村および同郡八幡(やはた)村(一部は現中央区)、早良郡樋井川村(一部は現城南区)が成立。同29年那珂郡の村は筑紫郡に属した。
 大正15年(1926年)には八幡村、昭和4年(1929年)には樋井川村、同8年(1933年)には三宅村、同29年(1954年)には日佐村がそれぞれ福岡市に編入された。同47年(1972年)、福岡市の区制施行により南区が成立した。

「南区の地に何時から人が住み
       どんな歴史を経て来たか」(「南区ふるさと」橋本友美)

 この南区の地にも1万年以上前の旧石器時代から人が住んでいたと言う人もあるが、よく分からない。
 物証のあるものとして、市の埋蔵文化財センターに所蔵の、7000年前の柏原山田から出土した縄文土器は古いことで有名である。これを造った縄文人は背振山麓の丘陵地を跋渉して、木の実・草の根・魚介類・獣等をとり、竪穴住居で暮らしていた。気候が今より寒く飢えの不安におののきながらの日々だった。男が猟をして、土器造りは女の仕事だったが、土器の火の燃えるようなデザインに土器を造った人の美的感覚に感心する。南区では老司・野多目・若久から遺跡が出ている。
 今から2300年程前ころになると、大陸から稲や道具や金属が伝わり、農耕生活をするようになり、生活がやや安定し、気候も和らいだので少しはゆとりが出来た。しかし、一面では権力機構が芽生え、魏志倭人伝に見るように権力者は板付や吉野ケ里にあったような環濠住居に住むようになった。そして飯塚の立岩古墳や吉野ケ里に見るような凄惨な戦斗を繰り返した。然し反面、須玖・板付・比恵の日本最古の稲作地帯が出来て日本の黎明時代をなした。
 那珂川流域には古墳が多い。南区では老司・野多目・穴観音古墳がそれである。弥生時代に芽生えた権力機構が豪族にまでのし上がり、人びとの上に君臨していた。大陸や大和に真似て大きな石室を持った墳丘墓を造り、大陸渡来の副葬品もあった。
 今から1300年程前になると、朝廷は近代化をめざし積極的に大陸の文物制度を導入された。今まで語り部による伝承に頼っていたものを文章化した日本書紀・古事記等に編さんされた。宣化天皇の元年に西日本の出先機関として官家屯倉を那ノ津の畔に置かれたことが書かれてある。また住吉神社の古宮といわれた現人(あらひと)神社が那珂川上流に祭られたこと、斉明天皇・中大兄皇子が西国鎮定のために西下された際の屯所であった盤瀬(いわせ)の行宮が現人神社の側にあった(福岡市制90周年記念誌による)。
 また、今から1000年余り前に編さんされた延喜式には、大宰府と壱岐対馬を結ぶ街道にあった駅として石瀬(三宅)長丘があったこと、百済・新羅・唐の通訳官が那珂郡日佐(おさ)にあったことが誌してある。また、大化の改新による班田収受の法により条理制が布かれたが、南区にも及んでいたことが近頃の調査で分かった。
 「オオキミノトオノミカド」としての大宰府の長官だった山上憶良(やまのうえのおくら)が、大宰府で歌ったといわれる万葉集長歌を要訳すると「人並みに働いているが身にはぼろをまとい狭い家の中で藁で造った床に寝、三度の食事にも事欠き、この貧しさから抜け出したいが、抜け出しきらずにいるよ」と。当時の貧苦の様子が窺える。
 奈良平安時代になると、駅や関所が置かれ、交通上の管理がされた。
 平安時代の末、平清盛は対宗貿易によって巨利を得ようと、那珂川の河口に「袖の湊」を開いた。そしてその守り神として父忠盛が尊崇していた肥前神埼の庄の櫛田神社の神霊を戴き、博多に櫛田神社を創設した。その後、両社の間の連絡は南区の地、那珂川の谷が利用されたと思われる。
 住吉神社に掲げられている博多古図に汐原が書きこまれている。その内容から鎌倉期のものと思われる。博多湾に続く入江は更に南に伸びている。また数十年前、放水路開削の際、今の大楠町一帯の地下から、大きな根付きの樟が発見されたと聞いた。大洪水の際、この一帯は波打ちぎわだったのだろう。また一昨年(1990年)西鉄大橋駅西側の海抜10メートルの所の地下から直径2メートルの大樟が発見された。かつて現人神社付近まで船が遡っていたこと、那珂川町から野多目付近まで馬鈴薯状のバラスが地下40センチ程のところに広がった大氾濫原であり、塩原・清水の一帯の地下は砂地であることより、那珂川上流の産地が大きな谷を造る程、浸食されて博多湾の入江を埋めて、今の大沖積地を造ったものと思われる。
 井尻の地禄神社の境内に文字が消滅しかかった板碑が3基ある。700年前に戦死された祖先の供養碑とのこと、南北朝から戦国時代にかけては戦乱が絶えなかった。秋の収穫が済むとよく戦が始まり、押領司が来て人や米をひったくって行った。
 年表によると、大風水害・干害・虫害が次々に襲っている。特に享保・天保の飢饉はひどかった。徳川時代の太平の世も農民は重い年貢に泣いた。
 筑前国続風土記に誌された以後できた村に和田店と野多目川原がある。和田店は神埼街道が出来た際、和田の人が駄菓子やを開いたことより、野多目川原は新田開発が奨励された頃、野多目の人が氾濫原だった川原を開拓されたことに始まると聞いた。
 南区の地は全くの農村だった。昭和35年(1960年)頃から産業構造が変わり、家族構成も変わって急速に住宅地化した。そして近年西鉄大橋駅を中心に副都心化が進んでいる。(以上「南区ふるさと」福岡市南区民俗文化財保存会)
  
下長尾村(しもながお村)
 現在の城南区長尾1-5丁目、樋井川2-3丁目、南区長住3丁目、中央区小笹1-5丁目、平和5丁目、南公園(以上は「福岡県の地名」の説だが、「南区ふるさと」では、長丘1-5丁目を入れている)

 北西に流れる樋井川の中流域にあり、東は上長尾村、那珂郡平尾村(現中央区)、同郡高宮村、西は片江村。樋井郡10ケ村の一つ。中世には上長尾村とともに長尾郷を構成した。正応4年(1291年)8月28日の関東下知状案に渋谷平五郎致重の遺領「筑前国下長尾田地」がみえる。年月日不詳の筑前下長尾田地相伝系図によれば、下長尾10町は致重が弘安の役(1281年)で討死した功により与えられた恩賞地で、惣領定円(重基)、辰童女、弥陀童の3人に各3町ずつ配分され、残る1町は長尾の泰平寺(太平寺、現南区)に寄進されたという。しかし、辰童と妹弥陀との間で亡父遺領をめぐって争論となり、正応3年12月11日には大宰府へ採決を願い出たものの、同4年8月2日に至り、和予が成立した。その後、辰童分3町のうち1町は娘の虎光女へ、弥陀分3町は娘尼顕心へ伝えられた。なお、薩摩入来院(現鹿児島県入来町)を本拠とする渋谷氏(入来院氏)の祖である渋谷定心の年月日欠の所領注文には「筑前国早良郡内下長尾」がみえている。
 正中2年(1325年)7月日の渋谷重名陳状案によれば、「早良郡長尾郷内田畠屋敷」は致重の兄弟重尚の子とみられる渋谷惟重から嫡孫別当次郎丸(惟朝)へと譲与されていた。惟重へ伝えられた長尾(下長尾)内の田畠屋敷の出自は不明。だが、惟重の次男である重名は惟重遺領相続の正統性を主張し訴訟となっている。
 嘉暦3年(1328年)12月21日作成の渋谷重広所領注進状案(入来院文書)には惟重跡の所領のうちに下長尾庄田地10町のうち田2町、畠2反、屋敷4カ所のうち検校次郎の一所が重広当地行分とされ、同4年5月に重名が注進した惟重の遺領の目録にも下長尾庄内田地2町、畠2反、屋敷1所とある。
 元徳元年(1329年)10月20日には入来院内塔原(とうのはら)郷(鹿児島県樋脇町)内の惟重遺領を別当次郎丸、重名らに配分する鎌倉幕府の採許が下されている。この時の下長尾の帰属については不明。
 いっぽう貞和2年(1346年)11月26日に「長尾扞比伊郷内柏原両村」のうち渋谷定円(重基)地行分などが養子となって入来院惣領を継いだ重勝へと譲与されており、同3年3月6日には定円、尼顕心、重勝によって下長尾水田2町7反、同刑部次郎屋敷などが養子若王丸へと譲与された(「渋谷定円等連署譲状」同元文書)。観応2年(1351年)7月30日には足利直冬により下長尾田畠屋敷地頭職などが重勝に安堵されている(「足利冬直安堵状」入来院文書)。翌3年4月19日、重勝は定円、尼顕心より譲与されていた「早良郡比井伊郷下永尾」10町分のうち6町を弟渋谷九郎左衛門尉に避渡した(「渋谷重勝避状」岡元文書)。これにより重興は致重遺領のうち定円分、弥陀分を領有することになり、また重興室寅三(虎光)は前掲相伝系図にみえる1町をも所領とした。
 文明3年(1471年)3月20日には宗職家によって長尾10町が森戸兵庫助に宛行われている(「宗職家宛行」歩行判物帳)。天文22年(1553年)と推定される4月13日に大内氏は那珂郡下長尾30町の地などを板付村(現博多区)の替地として弘中氏に宛行っている(「大内氏宛行状」弘中氏所蔵文書)。この那珂郡下長尾も当地であろう。
 小早川時代の指出前之帳面によると下長尾村は田33町4反余、畠2町8反余。慶長7年(1602年)の検知高509石余(慶長石高帳)。元禄5年(1692年)には高548石余、家数41、寺1、人数289(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も548石余。なお元禄国絵図には下長尾村の内として隈(くま)村が記されている。寛政期(1789-1801年)の家数27、人数101、馬24(別本「続風土記附録」)。明治初期の物産は茶、焼物薬土など。産土神の八幡宮と真宗栄福寺(現浄土真宗本願寺派)がある。

 以下、「角川日本地名大辞典40福岡県」より
<下長尾> 福岡平野の南部、油山に源を発する樋井川の中流域に位置する。南のイガイ道は神功皇后通過地との伝説がある。
<中世> 鎌倉期から見える地名。筑前国早良郡のうち、下永尾、下長尾荘、下長尾村とも見える。(中略9
<近世> 江戸期―明治22年(1889年)の村名。早良郡のうち。福岡藩領。鳥飼触に属す。枝村に隈村がある。村高は、「慶長国絵図」453石余、「正保郷帳」372石余、「元禄国絵図」370石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに548石余。
 明治初期の戸数73、人口296、牛12、馬15、田38町余、畠10町余、ほかに大縄田畑が少しある。山林59町余、池10、稲、麦、菜種、栗、葡萄、甘藷などを作り、産物は焼物土、薬土、正租は米、大豆258石余、雑税は米、大豆7石余及び金35銭余。明治22年に樋井川村の大字となる。

上長尾村(かみながおむら)
 現在の長丘3丁目、同5丁目、西長住1-3丁目、長住1-7丁目、城南区樋井川1-7丁目、宝台団地。(これは「福岡県の地名」の説)

 那珂郡野間村の西、樋井川右岸にある。早良郡に属する。北は下長尾村、西は堤村(現城南区)。中世には下長尾村と一括されて長尾郷を構成したとみられる。小早川時代の指出前之帳によると、上長尾村は田36町2反余、畠5町3反余。慶長7年(1602年)の検知高516石余。元禄5年(1693年)には高571石余、家数34、寺1、人数201。寛政期(1789-1801年)の家数25、人数150、馬18。産土神は御子(おんご)大明神社。

以下、「筑前前風土記拾遺」より
 「民居は本村・棚頭・牟田・横内等に在り、村の東に花立山有り、那珂郡野間村に堺へり、人家の東に川有り、桧原村より流れ来る、田島川の上なり。
○御子(みこ)大明神社 鬼ノ木に在り産神也、安徳天皇を祭ると云、村老相伝ふるに一年除夜に安徳天皇白馬に騎し此の地を過ぎし給ひしに忽ち、井中に惰(おち)て歿し給ふ、是より今に至りて村井を窄(ほ)らず、又白馬を養わず、もし犯せば必ず災ひ有りと云う卒強なるべし」

 以下、「角川日本地名大辞典40福岡県」より
<上長尾> 樋井川の上流域に位置する。古くは樋井郷十村のうち。
 明治初期の戸数49、人口199、反別は田35町余、畠10町余、山林23町余。産物は米、大豆のほか、柿5000、鶏卵1500、櫨実4000斤、菜種40石余。
 明治22年(1889年)樋井川村の大字となる。
 明治42年(1909年)より2400円を投じて耕地整理の工事を行い1町3反余の耕地を得ている。大正元年(1912年)、粘着力の強い粘土が採掘され、陶磁器用および博多人形の原料として搬出されるようになった。また同8年(1920年)には福岡煉瓦株式会社が工場を設置し、同10年(1922年)の年産額は2万円余にのぼった(早良郡誌)。

平尾村(ひらおむら)
 現在の平和1-2丁目、同4丁目、市﨑1-2丁目、中央区平尾1-5丁目、平尾、白金1-2丁目、大宮1-2丁目、小笹1丁目、同5丁目、平和3丁目、同5丁目、山荘通3丁目、浄水通、平丘町、平尾浄水町

 那珂郡に所属。春吉村の南西に位置し、北は庄村、薬院村。福岡城下から雑餉隈(現大野城市)に至る福岡往還が通っていた。小早川時代の指出前之帳に村名がみえ、田37町3反余(分米603石余)、畠4町3反余(分大豆24石)。慶長7年(1602年)の検地高832石余(慶長石高帳)。寛文12年(1672年)地押検知が実施された。元禄5年(1693年)には高863石余、家数59、社1、寺1、人数360(田圃志)。寛政期(1789-1801年)の家数59、社1、寺1、人数159、牛5、馬15(別本「続風土記附録」)。
 万治2年(1659年)家老吉田知年が当村内に下屋敷4万坪を取得、その子治年は正徳元年(1711年)ここに5畳の草庵を作り、春は芳雪軒、秋は綿葉寓と称した。六代藩主黒田継高は享保19年(1734年)以後この草庵を数回訪れている(以上「吉田家伝録」)。
宝暦11年(1761年)村方困窮のため用心除銀を拝借した(「郡役所記録」)。文化14年(1845年)歌人で勤皇派の野村望東尼が平尾山荘に隠棲した。
 産土神は八幡宮。宝永年間(1704-11年)に博多対馬小路から移った真宗西派円龍寺(現浄土真宗本願寺派)がある。明治初期には戸数150、人数643、牛16、馬16(地理全誌)。

 以下、「角川日本地名大辞典40福岡県」より
<平尾> 那珂川下流左岸に位置する。西北部の丘陵に百塚と称する多数の石窟があったが、福岡城建設の時、石垣として用いられたので多くは崩れてしまったという。
 明治初期の戸数150、人口643、耕地は田53町余、畠17町余。
 明治7年(1874年)平尾小学校設立。同22年(1889年)八幡村の大字となる。 

野間村(のまむら)
 現在の長丘1-2丁目、大池1丁目、大楠2-3丁目、野間1-4丁目、柳河内1-2丁目、皿山1-4丁目、長住1、同6丁目、高宮3-5丁目、多賀1-2丁目、玉川町、筑紫丘1-2丁目、若久1丁目、花畑4丁目、桧原1-2丁目、寺塚1-2丁目(これは「福岡県の地名」の説だが、「南区ふるさと」では、長丘1-2丁目は含めていない)。

 塩原村の西にあり、南は若久村、屋形原村、北は住吉村(現博多区)。東部を新川が北へ流れ、当村内の溜池を水源とする野間川が同川に合流する。東部を北西から南東へ福岡往還が通っていた。
永正12年(1515年)9月の省伯等連署状(省伯和尚認之案文)によると、博多承天寺領となっていた野間、高宮、原村(平原の誤り)は本来筥﨑宮領であったが、鎌倉時代中期頃に承天寺檀越・謝国明が銭600貫で買い取り、同寺に寄進した地という。永正12年当時、寺領百姓たちによる年貢緩慢があったことから、承天寺は守護代杉興長に依頼して年貢納入を厳命させている。
天文21年(1552年)9月18日に大内義長によって承天寺領の野間、高宮、平原(ひらばる)の3カ所などが安堵された(「大内義長安堵状」承天寺文書)。小早川時代の指出前之帳では北西に接する高宮村の数値に含まれるとみられる。
慶長7年(1602年)検知高は596石余(慶長石高帳)。元禄5年(1693年)には高620石余、家数44、寺1、人数193(田圃誌)。石高書上帳案の郡帳高も620石余。宝暦11年(1761年)村方困窮のため用心除銀を拝借した(「郡役所記録」)。寛政期(1789-1801年)の家数24、人数156、牛6、馬18(別本「続風土記附録」)。天保10年(1839年)、前年の凶作による那珂(なか)・御笠(みかさ)両郡19カ村の年貢納入延引の責任を問われ、当時の大庄屋謙助が罷免された(高原善七郎翁小伝)。
明治初期の物産は蓮根、藍、土瓶など。安政年間(1854-60年)に皿山で陶器を作るようになり、明治初期には竃2カ所があった。産土神は宝永年間(1704-11年)に高宮村から勧請したという八幡宮。社内にある神石は玉橋天神といい、かつては北六町ほどのところにあって菅原道真が腰を下ろした石と伝えられる。

 以下、「筑前続風土記拾遺」より
 「本村及び中村、昔は高宮村の内なりし由、慶長田村帳に見えたり、八幡宮徳吉という地に在り産神也、宝永年中高宮村より勧請すと也。社内に玉橋天神社有り、神体は一篇の石也(径壱尺五寸ばかり)、村の北六町ばかりに玉橋と云う地あり、昔此の所に在って菅神是に憩いたまいし石と云うをここに移して神体として祭る。
 光行寺真宗西万行寺末也。薬師堂二カ所(野中・辻)、野中に井あり、薬師の井と云う。村の西に口の池(水面四町ばかり)有り当村中池溏(ちとう)十カ所有りて蓴菜(じゅんさい)を多く産す。又鷺草とて花白く形鷺に似たる水草生ず、諸人是を愛して盆玩とす」

 以下、「角川日本地名大辞典40福岡県」より
<野間> 那珂川中流左岸の平野にあり、若久川が北流している。地名の由来は、沼地(ノマはヌマに通ずる)が多かったことによると考えられる。現在も野間大池がある。(以下略)
 明治初期の戸数62、人口269.反別は田36町余、畠9町余、山林65町余。産物は米、大豆のほか蓮根30丸、藍5俵、鶏卵100、櫨実1600斤、菜種64石、土瓶12400。
 明治22年(1889年)八幡村の大字となる。 
 
高宮村(たかみやむら)
 現在の長丘1-5丁目、高宮1-5丁目、平和1丁目、寺塚2丁目、大池1-2丁目、市﨑1-2丁目、大楠2-3丁目、那の川1-2丁目、中央区那の川2丁目。(これは「福岡県の地名」の説だが、「南区ふるさと」では長丘1-5丁目は含めていない)

 野間村北西の小丘陵地にあり、北東は住吉村(現博多区)、北西は平尾村、西は早良郡上長尾村。北東を新川が北東流し、北西から南東へ福岡往還が通る。
 高宮一帯は南北朝時代に軍事的な拠点となっていた。九州探題として九州に下向した今川了俊は、応安5年(1372年)に高宮に陣取り、4月に大宰府の征西府を攻撃した。この時の高宮陣には了俊方として中国地方の国人山内氏、周布氏、毛利氏、長井氏らや、九州の国人深堀氏、田原氏らも高宮に在陣した(応安5年12月日「深堀時広軍忠状」深堀文庫など)。
 文亀2年(1502年)3月、杉武道が代官職に任命された正税京着150貫文の山城石清水(いわしみず)八幡宮領筑前国所々のなかに、高宮がある。おそらく直接には筥﨑宮領であったと考えられる。近世の高宮村の産土神は宮山の八幡宮(現高宮八幡宮)で、これは中世石清水八幡宮領ないしは筥崎宮領であった名残であろう。
 小早川時代の指出前之帳では高宮村の田71町4反余、畠7町余。この数値には野間村分も含まれているとみられる。慶長7年(1603年)の検知高は747石余。寛永15年(1638年)福岡唐人町(現中央区)に住んでいた旗指の者が当村の寺塚に移住し、野地を拝領して開墾、通常は農業を営み、非常の際は旗奉行のもとに出陣することになっていた(新訂黒田家譜・続風土記拾遺)。
元禄5年(1693年)には高747石余、家数44、社1、人数333。宝暦11年(1761年)村方困窮のため用心除銀を拝借した。寛政期(1789-1801年)の家数36、人数128、牛3、馬22。
南西寺塚の山の中腹に高宮岩屋がある。石窟奥の正面大盤石に阿弥陀三尊が刻まれていることから、俗に穴観音とよばれている。福岡藩二代藩主黒田忠之は願が成就した礼に岩屋の前に設けたといい、元禄6年には長円寺(現中央区)の湛堂が石窟を修理、拝屋を再建して石階を築き、その下に曹洞宗興宗寺を建立した。石階の上からの眺望が美しく、遊観の客が多かったという(続風土記)。

以下、「筑前続風土記拾遺」より
 「本村及び寺塚、寺塚は村の西に在りて御旗の者居住す。四十川、村の東を流る。八幡宮田の頂と云う地に在る産神也、八幡之神を祭る、神体は劒の研石也、その数あまた有り、神宝に古面有り、此の社並に平尾八幡宮ともに、古え神功皇后ご経過有りし地という古宮址、坤(ひつじさる)の方小高き所に在り、祭礼九月十五日、祝史平山氏(福岡西町)。
 石窟観音本村の坤十町ばかり山中寺塚山に在り大なる塚穴也、本編に詳らか也、観音の下に禅宗(洞家)薬院村の長圓寺の末寺あり興宗寺と云う、補陀山と号す」
 以下、「角川日本地名大辞典40福岡県」より
<高宮>那珂川下流左岸の小丘陵地に位置する。地名の由来は詳らかでないが、「日本書紀」に見える斉明天皇の盤瀬の行宮と跡とも考えられる。
 明治初期の戸数94、人口403、反別は田45町余、畠10町余、山林25町余。産物は米、大豆のほか、琉球芋1万斤、梨1200、柿2700、鶏卵400、蜂蜜5斤、菜種32石、櫨実1500斤など。
 明治22年(1889年)八幡村の大字となる。

樋井川村
(「角川日本地名大辞典40福岡県」より)
 明治22年(1889年)~昭和4年(1929年)の早良郡の自治体名。上長尾、下長尾、田島、片江、桧原、堤、柏原、東油山の8カ村が合併して成立。旧村名を継承して8大字を編成。役場を田島に設置。旧藩主の別邸であった友泉亭の建物を利用した。村名は、樋井川が各村を貫流することによるが、また古代の比伊郷の地にあたるからともいう(早良郡誌)。
 合併時の戸数536、人口3067、寺院7、学校2、水車場5。中央部の平野は、樋井川および66カ所の沼地(総面積39町余)を水源とする農業地帯で、当村は農林業を主業とする。(中略)主要産物は米、麦、菜種、蔬菜、果実で、特に蔬菜と果実は大正期後半に急増。大正10年(1921年)の生産高は、米9729石、麦2743石、菜種3245石、蔬菜2万4907円、果実2万9423円。
 明治12年(1879年)頃花崗岩切り出しが始まり、また陶磁器、博多人形用粘土を産出。明治27年(1894年)麻生商店、同30年(1897年)豊国鉱業が石炭採掘許可を得て、石炭業が盛んとなり、大正9年(1920年)には鉱業戸数10を数えた。大正8年(1919年)福岡煉瓦が上長尾に創業し、同10年の年間生産高約100万個・2万円。
<古代 田篇に比(ひ)伊郷> 平安期に見える郷名。「和名抄」筑前国早良郡七郷の一つ。「比」と訓む。「続風土記」によると、当郷の名前の由来は、郷内の川に長さ7間半の樋を掛け水を田に引いていたことによるという。「地名辞書」は近代の樋井川村に比定している。
<中世 比伊郷> 鎌倉期~戦国期に見える郷名。早良郡のうち。比井郷、比郷、樋郷とも書く。当郷内には、上乙王丸名、下乙王丸名、東吉光名、若国名、行武名、柏原村、香原、桧原、下長尾などの地名が確認される。
 嘉禄2年(1226年)5月3日の僧栄昌が飯盛下宮常灯田2町を売却した際の田地売券に、その在所として「早良郡内比伊郷」と見える(青柳文書)。正応元年(1288年)10月3日の蒙古合戦戦功賞配分状によると、当郷は弘安4年(1281年)の蒙古合戦の恩賞地となっている。(中略)当郷は細分化されその地頭職が大隅、薩摩国の御家人に配分されている。
しかし、遠隔地に与えられた恩賞地は地行が困難であったと考えられ、南北朝期、歴応3年(1341年)3月禰寝清成は、「比伊郷内田地五町屋敷等、同国長洲庄内畠地在家等」を年貢米4石の進上を条件に小山田彦七に預けており、さらに貞和元年(1345年)、崇福寺に対し塔頭正洞庵造営間の費用として同地を寄進している。また、肥前国の竜造寺氏も当郷に所領を有しており、観応2年(1351年)12月日の竜造寺家政申状案によると、その祖高木季家の代より当郷内田地5町、畠地屋敷等の地頭職を伝領している(竜造寺文書)。
室町期、応永24年(1418年)9月阿蘇大宮司惟郷は、九州探題渋川清頼により当郷内勲功賞田地を安堵されており、当郷には阿蘇社領があったと考えられる。また、応仁・文明の乱(1467~)後の文明10年(1479年)、当郷内・香原、桧原などの地が大内政弘により配下の諸士に給与されている。下って戦国期、毛利、大友勢の攻防が激化するなか、永禄12年(1570年)6月、毛利方の武将・仁保隆尉は、「樋郷相動」における木原左馬助の戦功を賞している。

比伊郷元寇恩賞地の変遷
            福岡地方史研究会員 渡辺文吉
            (「南区ふるさと」福岡市南区民俗文化財保存会)

 福岡市の南区は、大部分が旧筑紫郡、藩政時代の那珂郡(ごおり)に属していますが、西より一部は旧早良郡樋井川村に属していました。現在の長住・西長住・長丘・桧原・太平寺・柏原などです。これらは樋井川流域でありますので、中世は早良郡比井郷(ひいごう)と云われた所であります。比井郷には十カ村ありまして、上流から柏原村・桧原村・上長尾村・下長尾村・東油山村・堤村・片江村・田島村・別府村・鳥飼村であります。この比井郷の大部分が合併して、明治時代に樋井川村となりました。
 この比井郷とお隣の七隈郷は、鎌倉時代に、蒙古が博多に侵寇した二度の戦争。つまり文永役と弘安役に、身命をなげ出して働いた当時の武士たちに、恩賞として分配された地域であります。弘安4年(1281年)の戦争が終わって7年後の正応元年(1288年)時の鎌倉幕府執権北条貞時(時宗の嫡男)は、恩賞地として配分可能な土地の一覧表を、時の鎮西奉行少弐経資と大友頼康に渡し、実態調査した上で配分する権限を委任しております。従って、少弐経資と大友頼康は両名の名義、つまり責任でもって、外国との戦争の論功行賞(恩賞地配分の大部分)を取り入れたのであります。最高権力者が行うべき論功行賞を、地方の将領に委ねるという事は、鎌倉幕府が責任を回避したという事になります。
 とにかく樋井郷が恩賞地として配分されたのは、正応元年10月3日付であります。配分を受けたのはなぜか遠国の薩摩大隅の武士たちでした。柏原の内10町歩を薩摩入来院(いりきいん、川内市東方)の戦死した渋谷有重の遺族に与えられている事が、薩摩の「入来院文書」によってわかります。この文書には当時の地名で、今日迄小字名などで残っているものが多数検出されます。その中に若國名(わかくにみょう)という地名があります。之は只今柏原交差点から西方農協支所から道をはさんだ向い側当たりになるようです。若国様という小さな祠が、戦前まであったそうですが、この神様は柏原の産神であります埴安(はにやす)神社に末社として移されております。従って、若国という地名は先述の所あたりを開拓して、農家の経営を指導・管理した名主の名前であると考えられます。神様に祀られて、数百年後の今日迄その名を残しているのですから余ほど、人望のあった人にちがいありません。時代は恐らく鎌倉より前の平安時代の人でしょう。また同じく「入来院岡元家文書」によると、下長尾の10町歩の田地の地頭職を有重の兄弟の致重(むねしげ)の遺族が受領しています。その弟重尚という人も戦死しているようです。渋谷氏では弘安役で兄弟三人戦死という事のようです。
 鹿児島県に行かれた方は根占(ねじめ)という地名を聞かれた事があると思います。大隅半島の内側、指宿温泉の対岸に大根占、小根占という町があります。ここの土着の古代からの豪族が禰寝(ねじめ)氏であります。蒙古戦争当時の当主・禰寝清親は、上長尾辺りを5町歩あまり配分されました。その地名のうち、山崎というのは現在の南区のうちで、今筆者が住んでいる所あたりです。9階建ての福岡市住宅供給公社の高層住宅が建ち、その側に桧原山崎公園という小公園も出来ています。
 「禰寝文書」に出る林﨑という地名も現在残っております。樋井川3丁目城南区に入りますが、そこには文永10年(1274年)銘の八大竜王を祭った小祠があります。蒙古合戦に関係あるかどうか分かりません。水神様の可能性の方が強いかと考えます。
 其の外、文献の上では、薩摩の武光師兼、国分寺友兼、肥前の竜造寺家益などが比井郷・七隈郷の配分を受けております。数年前、住宅公団による柏原団地の造成に先んじての考古学発掘調査で、鎌倉時代後期の、武家の館跡と推定される遺構が検出されました。おそらく柏原に10町歩の地頭職を配分された渋谷氏の代官の館跡(惣検校屋敷跡と入来院文書に記載)の可能性が強いものであります。これら薩摩大隅の武家等は、何時頃迄この地を支配したのでしょうか。何分、薩摩大隅の領主が北部九州など遠隔地の所領を支配するのは、南北朝の争乱期を迎えると次第に困難になってきました。それでも先の「入来院文書」による名目だけであったかも知れませんが、渋谷重豊が延徳2年(1490年)嫡男重聡(しげさと)に譲与しております。之が最後で渋谷氏の文書にも出てまいりませんが、在地の領主に押領されるか、寺社に寄進するかしたものでしょう。
 禰寝氏の方はもっと早く、貞和元年(1345年)南北朝時代に宗福寺(太宰府)塔頭(たっちゅう)正洞庵造営の折に寄進してしまったようです。先祖が命がけで獲得した大切な領地も、世の移り変わりとともに変転していくのは止むを得ないことでしょう。
 何故、比井郷が元寇恩賞地の対象となったのか、はっきりした事は分かりません。しかし、比井郷と称しながら荘園の構成単位である名が存在するところから、平家或いは皇室の息のかかった国衙領が荘園化していたものと想像されます。それが、源平合戦或いは承久の乱で幕府の管理下に置かれていたのでないかと想像しております。上長尾の御子(おんこ)神社は安徳幼帝をお祭りする神社ですが、この地域が平家領に関係があった事を示す手掛かりではないでしょうか。
 南区における、もう一つの領主変遷の例を申し上げます。博多の名刹・承天寺は鎌倉時代の仁治3年(1242年)宗商人・謝国明の浄財と、鎮西奉行・少弐資能(すけよし)の土地寄進により聖一国師を開山として完成した臨済禅の名刹であります。それが不幸な事に、7年目に火災で焼けました。謝国明は、再度浄財を寄進して寺を再建します。その上、那珂郡高宮村、野間村、平尾村の3カ村を、筥﨑宮から買い取って、承天寺料所として寄進しました。戦国時代までは承天寺領として続いたようです。こうした土地の領主の変転のしかたも、古来国際都市であった博多近郊ならではのことと思われ、他所では見られない特殊性があると思います。

八幡村(やはたむら)の沿革
「南区ふるさと」(福岡市南区民族文化財保存会)

八幡村の誕生
 明治21年(1888年)4月17日に市制及び町村制が公布され、同22年(1889年)4月1日に施行された。このとき、屋形原、若久、野間、高宮、平尾の5つの村落が統合して1カ村となり、その村名を決める際に、日佐村や三宅村と同様に代表村名を旧村落の中から選ぶことになって、中央部の高宮と野間が自分の地名を主張して譲らなかったので、両村にある八幡(はちまん)神社の字をとって八幡村としたようです。また、平尾の氏神様も八幡神社です。

地域の歴史
 この地域の歴史について調べると、昔、寺塚をはじめ鴻巣山の一帯には、百塚といって沢山の古墳があったそうですが、黒田如水が福岡城の築城に際し、石材は悉く運ばれて、穴観音だけは黒田家の祈願所として祀られてきたそうです。この穴観音は、1500年も前のものですから、八幡村の歴史の中では最も古い古墳でしょう。
 筑前続風土記の中に、永亨年間ごろ(室町時代)屋形原に千葉探題の館があったので、その村名がついてとあります。また、三代藩主光之の長男綱之が政争の犠牲になって幽閉され、泰雲と号して屋形原に30年間蟄居していたといわれています。
 野間の神社の境内に玉橋天神社があって、村の北方の玉橋という所が菅公(菅原道真)の憩われた地だと書いてあります。また、若久の御畠山も黒田藩の苑のあった所だそうです。このように様々な歴史があるようです。
 高宮の八幡様については此の辺の神社の本社だったようです。筑前続風土記の中にも野間と平尾の八幡宮は高宮村から勧請したと書かれています。ご神体は銅鉾の鋳型です。神社はまた郷社ではなかったろうか、今も社務所があって神主も居られます。

高宮が村の中心
 高宮が八幡村の中心で村役場がありましたが、その場所は昔の米の取立所、つまり年貢米の収納場所のようで、土塀も2カ所くらいありました。村役場の横には駐在所があり、巡査さんは塩川さんから大石さんに変わられました。当時は、夏でも裸でいると違反で連れて行かれたこともあります。役場の横の川にはコモが生えて、川魚が泳いで緋鮒(ひぶな)もいたのを覚えています。
 村の誕生と同時に八幡小学校が出来るとき、高宮か野間かという時に、その当時平尾は住宅も多くて、また近くなるので高宮の方に加勢されて決まったといいます。なお屋形原は距離的に遠いので、低学年は分校に通っていました。

区画整理事業
 昭和5年(1930年)に野間新町が区画整理を実施したときには、その当時野間の人が郡役所に勤めてあって、将来の発展のためにと力を入れられたそうです。その時野間大池から野間四つ角まで、その当時としては、びっくりする位に広い6間道を中心にして、その両側を区画整理したのです。
その区画整理は組合施行でしましたので、市から補助金は出ていません。その後、35年(1960年)に市が施行した寺塚には補助金が出ています。野間新町の時は、高圧線が通るので九電と交渉して補償金を貰ったので、土地は減っても、金は出さずにすみました。その区画整理の記念碑が、若久川と大池川の交流点に建っています。
高宮地区も平尾と一緒に昭和5年から数年かかって区画整理をしていますが、福岡市では高宮は高級住宅地、文化村と言われていました。
大正の末期に、今の高宮駅の北側付近に競馬場があったのですが、昭和3年(1928年)から始まった南部区画整理事業(今の大楠一帯)のときに廃止されて、春日原競馬場に移転しています。
また、高宮の市街地の中に大きな森が残っていますが、これは貝島炭鉱主の別荘があって、それを市が買収して残しました。あれだけの森が残ったことは貝島のお陰でしょう。あの当時、自家用乗用車を乗っていたのが非常に珍しかったので、その番号が4番だったことも覚えています。

高宮往還
 高宮から平尾、薬院に通っている道路は非常に古いようです。藩政以前から通っていて、博多から大宰府に通ずる道だったでしょう。軍隊が出来てからは演習によく通っていたので、兵隊道とも言っていました。その道端には松の木が何本もあったのですが、最後まで残っていたのは向野の一本松ではなかったでしょうか。また高宮ではその道路付近から、昔の瓶棺の破片も出土しています。
 その道路を明治7年(1874年)の佐賀の乱の時、負傷兵を人力車で福岡連隊の二の丸病院まで運んでいたようです。そのため、人力車の運賃が高くなったと聞いています。

西鉄電車の開通
 大正11年(1922年)に西鉄電車の道床をつくるときには、平尾と高宮の間の山から土を採ってトロッコで運んでいた。また、向野山からも土を採って、その跡地は住宅地になりました。電車が通って高宮と野間の間に駅が出来て、その駅の真ん中に溝があって、高宮と野間の大字界でした。それで高宮の一番地で野間の末尾の番地でした。また駅は、村役場の前に主張したそうですが、高宮と野間が駅の引っ張り合いをしたと言います。
 電車の通る道筋が決まる時、最初の計画では住吉の方に寄って通すということであったが、住吉が意見がまとまらなかったので、高宮が引っ張ったとかいう話もありました。
 ところが、塩原の人の話では、塩原に地録神社のすぐ南側を通ることになって、砂利まで置いてあったが、塩原から「線路の踏切が坂になって馬車や車力の通行に困る」とか、「牛馬が驚いて農作業が出来ない」、また「鶏が卵を産まなくなる」等と言って猛反対したのだと言われています。
 急行電車とはほぼ同じころ、北九州鉄道が出来ました。唐津線と言っていました。後の筑肥線ですが、一足早く鉄道を敷いたので、急行電車が高架でまたぐことになりました。汽車の方の駅は最初は新柳町駅といっていましたが、後には筑前高宮に駅名が変わりました。急行電車の駅は最初、八幡駅でしたが、開通して2年後の大正15年(1926年)4月に八幡村が福岡市に合併したので、平尾駅に変わったのです。(大正15年頃の地図には駅名がそれぞれ「しんやなぎまち」「やはた」と記されていて、競馬場もあります。)
                 <座談会「八幡村を語る」から>

高宮八幡宮縁起
 <祭神 玉依姫・応神天皇・神巧皇后>

 当高宮八幡宮は社記によれば、天智天皇盤瀬行宮(いわせあんぐう)にあらせられた時、神巧皇后ゆかりの地として、この所に御奉祀あらせられたという。その後、寛仁年中(1017年頃)岩戸少郷(いわとしょうきょう)大蔵種直に至り、社殿を造営して武運を祈り、代々崇尊、南蛮夷の賊並びに刀伊(とい)の賊討伐の際、最も神威を顕わし給うたという。
 また建久年中(1190年頃)原田家が怡土郡(いとぐん)の高祖(たかす)城に移ってから、当神社を高宮の西南、宮の尾に遷し高宮・平尾・野間三村の氏神、那珂郡の鎮守神として里民の崇敬を集め、神域は高燥(こうそう)の地を占め、老樹鬱然として幽?(ゆうすい)を極めた。
 関ヶ原の役後、黒田長政公入国後は、当社を武運祈願の神社として、木造鳥居を御寄進ありその地を鳥居の下と云い、流鏑馬奉納の地を馬場と云い伝えており、慶長7年(1602年)本宮を古宮の跡東南の地に遷座し奉り、分霊を平尾・野間の両村に勧請して、現在に至っている。
 また、当宮は古く安産の守神として宇佐八幡宮から勧請し奉祀してあったが、370年余前、黒田藩の武士が妻の安産祈願をしたところ、玉の如き男の子を出産した。この子が長じて17歳の時、一本の棒を持って諸剣士と試合をなし、電光石火、急所を突いて次々と相手を打ち負かした。これが黒田藩独特の杖術を始めた夢想権之助である。夢想権之助は、神社神域の隣、大森二郎氏の先祖と共に、黒田藩の指南役として奉仕した。この縁で、後に当社を黒田藩の杖術、槍術の祈願社とされた。
 なお、現在黒田藩に残る抱大砲(おおづつ)の西洋兵術は、肥前鍋島藩と共に長崎からいち早く伝わったものであるが、この砲術発達の基礎となった、両脚を開き、腰を落として前かがみになり臍下に力を入れて火薬に火が付くのを待つ、この腹力の入れ方は、権之助が始めた杖術の呼吸を学びとったものであると云われている。(高宮八幡宮縁起より)