「福岡百年(上)・黒田の殿さん」(読売新聞西部本社編)
(1967年3月14日発行)より

急ピッチの武器づくり
幕末から維新まで動乱期の黒田52万3千石の殿さんは11代長溥(ながひろ)公。天保5年(1834年)11月に藩主となった。そのころ国内は藩政の失敗、全国的な飢饉続きで暗い時代である。
天保8年(1837年)には大阪で大塩平八郎の乱が起こり、封建支配も揺らぎ始めたころだ。初仕事には破産状態の藩財政再建が待っていた。が、うち続く凶作、ふくれあがる軍事費などでどこの藩も台所は火の車。長溥公はまず藩士の給料を大幅な天引きで借り上げたが、追いつかない。富クジ、新藩札も発行してみたが、まだ足りない。あげくの果てに興業にまで手を出し、芝居、相撲をうって木戸銭までかき集めた。どれも大した効果はなく、残ったのはインフレだけ。今の東中洲歓楽街はこの興業地として当時荒れ地だったデルタ地帯を開発したのが起こりである。
最後の手段は農民を督励して財源の年貢米を増収させるしかない。「女の髪飾りなどぜいたくは敵だ。百姓は朝6時から日没まで働け」ときびしい倹約令を出した。しかし、限りある領地からあがる米が急に増えるわけはない。
財政危機におかまいなく時代のアラシは吹きつけ、外国軍艦の出没で海防を迫られてきた。弘化4年(1847年)中洲(福岡市)に精錬所を建設して大砲、小銃を、早良郡柏原村(福岡市柏原)には火薬工場をつくって武器製造のピッチをあげた。精錬所から吐き出す黒煙を福博の人たちは驚きと不安の目で見守ったという。
文久3年(1863年)、若松、戸畑など領内沿岸一帯に海防の見張り所を置き、志賀島など10カ所に砲台を急造して自家製の大砲を据え、守りを固めた。軍艦も大小130余隻をそろえ、これに大砲を積んで“無敵艦隊”を編成した。ところが、相次ぐ軍備拡充で兵隊が足りない。目をつけたのが無給で使える農民だ。かり集めてにわか兵士に仕立て、連日大砲射撃の猛訓練を始めた。

両派の動き一触即発
ちょうどそのころ、京都では長州藩士を中心にした勤皇討幕運動の火の手があがった。藩内も勤皇、佐幕の真っ二つに割れ、藩論は大揺れ。内憂外患に直面した長溥公、島津家から入った養子の悲しさで、家臣への抑えが効かない。黒田如水、藩祖長政以来270年も名家の伝統を守り抜こうと両公の肖像、兜まで持ち出し、威光を借りて命令することもたびたびだった。
慶応元年(1865年)1月に、三条実美公ら五卿が藩内の太宰府に入り、幕府からは監視役を命じられる。諸国の勤皇の志士は続々と領内に入り込む。太宰府や野村望東尼のいる平尾山荘は志士たちのアジトとなり、藩内両派も一触即発の状態である。

140余人を根こそぎ
こんなとき、佐幕派の重臣浦上信濃らが大変なことを耳に入れた。青年家老加藤司書ら勤皇派の一党が、煮え切らない藩主を廃して世子を立てる陰謀を進めているというのだ。告げ口を信じきった長溥公は司書ら藩内の勤皇党140余人を根こそぎ検挙し、同年6月、うち22人を切腹、打ち首という全国でも例のない血の粛清をやってのけた。
明治の勤皇政府になったあと、この申し開きに佐幕派浦上ら3家老に詰め腹を切らせる立場に追い込まれ、長溥公は苦い思いをかみしめながら、明治2年(1869年)2月、世を養子長知公に譲り、多事多難な治世35年の座を降りた。2年後の8月23日、一族は住みなれた城をあとに新しい首都東京に向け、船で発った。その日、城下の住民1万人余が博多沿岸で泣いて別れを惜しんだといわれ、ふところのさびしい旧藩主のために多額の金をそっと贈った博多商人の話も残っている。

墓地改装をめぐるナゾ
時代はとんでさる昭和25年(1950年)6月のこと。旧封建藩主へのにくしみに燃える人たちが福岡市千代の松原一帯の広大な黒田家墓所の開放を要求。その結果、墓所は狭められ、崇福寺境内の一画に押し込められ、荒れ果てて見る影もない。この墓地改装で発掘された4代綱政公の副葬品、元禄期柿右衛門作の燭台や数々の名品が姿を消した。発掘関係者が盗んだという説と財政難の当主が処分したという2説があり、真相はナゾだ。燭台はめぐりめぐって現在、玉屋デパート会長田中丸善八家に移っている。
版籍奉還から97年、当主14代長礼氏(76)と15代を継ぐ長男長久氏一家は東京・赤坂に住み、親子二代、東大教授、鳥類研究家として学究の日を送り、故郷の土を踏むことはまれだ。

ところで、黒田家系図をみると、正統がわずか三代で絶えていることに気づかれるだろう。大分県中津市地方では、いまでもこれは中津の前領主一族の呪いのためだと語り伝えている。というのはこうだ。天正15年(1587年)7月、黒田孝高(よしたか、44歳で家督を21歳の長政に譲り如水と号す)は九州征伐の功で豊臣秀吉から豊前6郡12万3千石の大名に封じられ、中津城に入った。
ところが、400年来この地は宇都宮氏の国。当時の支配者宇都宮鎮房(しげふさ)の子朝房(ともふさ)も黒田とともに島津征伐に従軍していながら、一族は伊予国替えを発令され、あとに黒田が入ったからおさまらない。鎮房は城井谷(筑上郡)に立て籠もり、新領主に反旗をひるがえした。
長政は父孝高の忠告を無視して攻めたがさんざんの敗戦。新領主の面目はまるつぶれとなった。そこで一計、翌天正16年いったん和睦し、同17年4月20日、節分にことよせて中津城に鎮房を招いた。従う荒武者200余騎。長政は鎮房に酒杯を与え酒を注いだところで控えの部下に切らせた。さらに長政自身が一太刀。従者もみな押し包んで暗殺、続いて長政が先頭に立って主のいない城井城に押し入り、鎮房の妻や一族をことごとく討ち果たした。
供の武士で逃れた者は中津城東の合元寺にこもったが、全員切り死にした。このときの刀の痕跡はいまも大黒柱に残っており、地元の人々は「血柱」と呼んでいる。また、寺の白壁はいくら塗りなおしても血がにじむので、朱塗りに変えて、今も「赤壁」の異相のままだ。この一族根絶やしを謀ったむごたらしい史実を小説にしたのが大仏次郎の「乞食大将」である。
さて、宇都宮氏滅亡の日、城井の里では、切り死にした武士の遺族たちが集まり、地に野バラをさして領主一族を弔うと同時に、黒田一族の短命を念じ、のろい続けた。このため黒田の正統が三代で絶えたというのである。もちろんお話でしかないが、幕末多難の時代に養子藩主であるために道を誤った事実をみると、この因縁話が亡霊のようによみがえる思いがする。

加藤司書 (かとうししょ)1830-1865
名は徳成(のりしげ)、通称司書。天保元年(1830)生まれ。福岡藩2800石の中老席。元治元年(1864)の京都の変には、藩兵の隊長となり、長州藩と幕府の間に立ち、長州藩を謝罪させ、一方幕府の追討総督を説いて戦いを止めさせた。五卿を太宰府に迎え、薩摩、長州とも謀って、大いになすところあったが、不幸にして藩論が佐幕に変り、建部武彦、鷹取養巴などの勤王家とともに捕えられ、慶応元年(1865)10月25日、小山町(現・福岡市博多区冷泉町)天福寺で切腹。黒田節の歌詞「皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)はいかなる事をか勤むべきただ身に持てる赤心(まごころ)を君と親とに尽くすまで」は司書の作である。 (博多郷土史事典」

「青年家老・加藤司書の死」
司書がもし生きていたら
歴史に“もし”ということはないが、仮定での話が許されるならば、筑前勤皇党の首領、黒田藩の青年家老で、黒田節の「すめらみくにのもののふは??」の作詞者として知られる加藤司書などは“もし”をあてはめたくなる人物だ。司書が生きていたら黒田藩は勤皇運動の中心勢となり、維新の花形にのしあがっていたろうにという期待である。
事実、司書にはそれを可能にさせる一瞬があり、秘められた史実として口伝えに残っている。司書の同志140余人とともに弾圧され、福岡市小山町(現在の博多区冷泉町)の天福寺境内で切腹したのは慶応2年(1866年)、36歳の花の盛り。
司書伝(新旧2冊)など、あらゆる史実はこの切腹の劇的なシーンを「太宰府にいた三条実美卿の助命使者、土方楠左衛門(のちの久元侯爵)が5里の道を早馬を飛ばして駆けつけ、門前で声高らかに助命を伝えたときは切腹のすんだあと。門はついに開かなかった。使者は大地をたたいて、一刻の遅れをなげき、悲しみ、英傑の死を惜しんだ」とある。

いつかこの真相を世に
ところが、この切腹に一部始終を門外からつぶさに見つめていた“歴史の目撃者”が二人いた。この目撃者の話から助命場面の真相を知っているのが天福寺先代住職の妻岸本千茂さん(55)である。千茂さんの話によると、二人は天福寺隣にあった造り酒屋「万屋」の娘(当時9歳)と近くの大野家の息子(同7歳)。いずれも故人となり、子孫の所在も明らかではないが、少年の心に焼き付いた歴史の一コマは晩年の約20年間、天福寺に碁打ちにくるたびに千茂さんをつかまえて、飽きずに語り続けられた。
「いつかこの真相を世に知らせて欲しい」大野老は昭和16年(1941年)、近くのたばこ屋で死ぬまでこう頼んだという。悲願にこたえ「司書伝を書き改めるのが私のつとめ」。こう前置きして千茂さんは本題にはいった。娘は踏み台から塀越しに首だけを出し、息子は門外のカキの木にのぼって見つめていた。

早くやれと門内の叫び
ちょうど旧暦の10月25日、司書を乗せた護送用の網かごが天福寺の門をくぐったときは、夜も相当ふけていた。月はこうこうと一行を照らし、博多の町は冬の寒気に凍りついていた。かごは門と本堂の中間、左手にある一本松の下で止まった。血止めのサラシを分厚く巻いた畳2枚がT字方に並び、白装束の司書がすわる。介錯の用意が無言のうちに進められる。このとき、ものすごい勢いで早馬一騎が門前に着いた。「開門! 開門!」。声を限りに叫ぶ、助命を伝える使者だ。門内では検視の一行がざわめく。「早くやれ!」と叫ぶ声も聞こえる。あたふたと使いが門番のところに走った。「司書殿、ただいま切腹終わる」と門を開こうともしない。とたんに使者が馬からドウと落ちた。何ごとかわめきながら大地をたたいて号泣し始めた。

真一文字に腹かき切る
門内はにわかにあわただしくなり、切腹を急がせる。司書は古式どおり真一文字に腹を掻き切って首をさしのべた。ヒラリ、介錯人の太刀が月光にはえて一閃。交代した武士がさらに一振り。すべては終わった。娘は塀にしがみついたまま震えて動けず、介錯人の場面は見ることができなかった。身じろぎもせず、木の上から見守る少年の前で首はタケに刺されて胴体とつなぎ合わされ、埋葬のためかごに納められてすぐ天福寺を出た。約300メートル離れた聖福寺へ。見送る少年はあまりのショックで頭は空白状態。いつ木を降り、どうして家に帰ったか分からなかったと、恐怖の思い出をかみしめるように繰り返し語った。使者は間にあったのになぜ助けなかったのか。このナゾについて、大野老は「殿さんに気兼ねした検視役の独断だったろう」とみていたというのが千茂さんの話のすべてである。

棺の中に血染めの羽二重
もし、このとき司書が助かっていたら、彼の行動力は必ず汚名をそそぎ、藩論を再び勤皇一本に統一していただろうにと思うのは感傷であろうか。司書が逝って50年目の大正4年(1915年)9月、菩提寺の聖福寺内の節信院で墓地を改装するために司書の墓も開けた。カメ棺の中に血染めの白羽二重が糸目一つくずれずに残っていた。司書の直孫三代院主の輔道師がついている土砂を落とそうと水洗いしたとたん、黒々とこびりついていた血が鮮血のように流れ出したという伝えもある。この白むくも昭和20年(1945年)6月19日夜の大空襲で寺とともに焼けた。いま残っている司書の肖像は生き写しだったという輔道師をモデルにしたモンタージュである。
「すめらみくにのもののふは??」の歌は司書得意の絶頂期、長州征討軍36藩の代表が広島城大広間で軍議を練ったとき、軍の解散を説いていれられ、宿舎に帰り、嬉しさのあまり詠んだと伝えられている。