長住団地開発までの歴史
元長住公民館館長・大場忠雄さん
「ながずみの歩み」(平成11年10月1日)から)
わが長住校区の大部分は、昭和初頭まで早良郡樋井川村上長尾地区でした。当時の樋井川村は、現在の田島、下長尾、上長尾、片江、東油山、堤、桧原、柏原の8地区を包含した村で、総面積616万5千坪余の広大な村で、ある時期には、荒江、原の一部まで含んでいたこともあったようです。(中略)
村役場は友泉亭にあり、明治26年当時、長尾尋常高等小学校と檜原尋常高等小学校の2校がありました。世帯数は540世帯前後で推移し、人口もほぼ3,500人内外で、昭和初期に至っています。また、職業はほとんど農業で、農地は、現在樋井川流域の肥沃で平坦な地区に集中していました。また、長丘地区でも果実園が栽培されていました。
このような歴史を刻んだ樋井川村も大正14年の筑紫郡旧八幡村(現在の長住1丁目から6丁目、皿山に至る南北の線に筑紫、早良両郡の境界が走っていた)に続いて、昭和4年4月1日をもって、福岡氏と合併し、福岡市大字上長尾、下長尾となりました。前述の旧八幡村は、現在の平尾、野間、若久、屋形原までの257万余坪を有していました。
このような中、昭和10年に至り、現在の長住校区の大部分は、戦雲急を告げる時代でもあり、旧陸軍福岡24連帯の練兵場として接収されました。軍隊が総てに優先した時代であり、接収は僅か3日間で終了したそうです。(中略)
陸軍は接収後、民有地との境界に、御影石で「陸軍」「二〇二」等石柱番号を彫り込んだ石柱総数206本を埋め込んでおりました。戦後、住宅公団の開発により、撤去された石柱は、校区内各公園の車進入防止用の石杭として埋設され、今にその面影を留めています。
終戦後、演習地は開放され、接収前の旧地主に返還払い下げし、就農してもらうとともに、開拓地として周辺所在の農民の方、帰還軍人の方などに農業就労を前提として払い下げられました。
しかしながら、大部分が丘陵地であり、果樹園として葡萄、西瓜など栽培されましたが、思うに任せず、なかなかご苦労があったようです。
折から戦後の復興期にあたり、日本住宅公団におかれては、「勤労者のための耐火性を有する集団住宅の建設、並びに宅地の大規模な造成、これに関連する土地を含めた土地の環境改善、公共施設の装備改善により、住みよい、明るい、健全な新市街地を建設することを目的とする」として「長尾土地区画整理事業」を開始されました。
その概要書によれば、「本地区は福岡市都心(天神町)の南方5キロメートルの地点にあり、南北に伸びた丘陵地帯で、地区の面積の80%は旧陸軍練兵場跡地で、戦後、農林省が開拓農地に指定し、入植者及び地元に売り渡された土地である」と記載されており、総面積約83.16万平方メートル(251,580坪)の大規模開発となりました。(以下略)
原野→果樹園→軍隊→開拓地→住宅地
元長住1丁目自治会長 中原好美さん
「ながずみの歩み」から
長住地区を古い地名で示せば、筑紫郡八幡村大字野間字柳河内912番地の一部、現在の長住1丁目を南北に走る中通りの東側に当たる。西側は、早良郡樋井川村上長尾地区である。大正年代に福岡市に合併し現在に至っている。
幼少であり調査もしていないので、詳しいことは先輩の稿に譲るが、只この地域は草叢に、雑木林の地で、所謂原野であった。何時の頃か、地域の一部を有力者・地主が果樹園は極めて短期間の中で廃止され、福岡歩兵24連隊の演習場となった。私の若年時代に2~3回位戦闘演習が行われたが、兵舎などいっさいなく原野そのままであった。戦局が厳しくなるにつれて、演習で訓練する暇もなく、直接戦場に駆り出されたのであろう。
終戦後、郡の解体により、外地からの引揚者のために農地(開拓地)として開放され、若干の人が入植した。然し、元来肥沃な土地でなかった為、何時ともなく解散し、国の施策により、住宅地として整理され、今日に至っている。一時、軍用地であった面影は、道路の側、公園の周囲に花崗岩で「陸軍」と刻した境界石を見ることができる。当時を偲ぶ縁とされる。
記述をタイムトンネル式に、6,70年前に戻す。現長住1丁目の東側は、区画整理が行われていない。旧道が若干整備されただけである。長住東公園の端に「花守地蔵尊」があるが、整理前は少し高くなったところに祀ってあり、高い松の木が5,6本あった。何か願い事をして成就したら、川原の石を綺麗に洗い何個か捧げ、お礼詣りをする風習があり、石投地蔵と私どもは言っていた。ちょうど、現在6丁目の坂は、今も昔も急な坂道で、皿山との堺であった。一帯にこの土地は、赤土が多く、雨後自転車で通ると車輪にへばり付いて、除いても除いてもまたべた付くといった感じでした。
また、現在の2丁目交差点と3丁目交差点の中間位から、長尾小学校付近まで一直線で、夏の日盛り、学校近くの商店までお使いに出された時など、右も左も田圃と雑木林で、唯一本大きな木があり、唯一の休み処であった。この道は子供の足には非常に遠く感じかれ、その大木の下で一休みして帰ったものである。
小学校は高宮小学校で、1年生の1年間は、現在の高宮2丁目左側に小高い処があって、木造平屋建てのもので、正面には花崗岩の高い門柱が建っていた。運動場が狭いので、運動会の時など、上級生は用具を高宮3丁目左側の高台まで運んで競技をしたものである。2年生の時、平尾(白金町)に新校舎が建てられ移動した。約4キロの道を毎日通った。勿論、今のようにバスも自転車に乗る訳でもなく、徒歩で1時間以上かけて通った。
4、5年生頃から帰り道は、時には平尾越え(現在の平和2丁目→1丁目→寺塚)して帰った。当時けもの道で、大雨の時などは、雨水が川のように流れていた。現在、舗装されて立派な道路になっているが、道筋はけもの道と殆ど変っていない。
野間4丁目から大池まで道路が開通するまでは、今の大池小学校の麓の道が唯一で、多賀町の若久川側の道を通って行った。勿論砂利道である。昭和15年ごろ(年はよく覚えていないが、私が16,7歳の頃)夏に大洪水があって、大池から一面見渡す限り海原のようになったことがあった。古老が農道の両側に竹を立て田圃に落ちないように印を立てたこともあった。また、洪水のため、大池の堤防を水が越えるのでは、と心配し、近所の農家の人が集まって、最悪の場合、堤防の一部を削り、決壊を防ごうとしたこともあった。
野間大池は八丁池とも言われるくらい広く現在の寺塚1丁目1番地の一部、皿山へ行く道路東側は共に大池の一部であった。1丁目に井口病院前に大きい山桜が現在もあるが、ここ5、60年の町が変わっていく様を眺めてきたことであろうと思う。(以下略)
「ながずみの歩み」タウンニュースから
油山観光道路全線開通
油山と六本松を結ぶ通称油山観光道路が昭和58年12月1日全線開通した。笹丘~六本松間の工事に手間取り、着工から3年目の開通となった。この開通で長住から六本松、西新方面への往来が便利になった。
大池公園誕生 野間大池改修終わる
昭和55年8月の豪雨で野間大池の水が溢れて周囲が冠水したのがきっかけで、59年から貯水量を増やす浚渫工事に取り掛かったが、62年春この工事が完成した。
貯水量は約2倍に増えて、梅雨や台風への対応も力強くなったのに加え、平時は公園として利用できるように整備された。
底部の平地には芝生が張られ、野球以外のスポーツに使えるようになった。また周囲の斜面を利用してスポーツ観戦のスタンドが設けられた。通路も自転車や障害者の利用を考慮してゆるやかなスロープ状に整備された。
ドカ雨で各所浸水
昭和55年8月末、集中豪雨で長住一帯の各所で浸水さわぎ。長住1丁目では野間大池が溢れだしてバス停付近が水浸し。この他、長住3丁目、長丘5丁目、桧原1丁目など殆どの地域で床上浸水の被害を受けた。この年は冷夏・長雨と異常気象だったが、その締めくくりがこの浸水騒ぎだった。
西鉄バス寺塚山越し路線新設(55番線)
昭和58年7月2日、西鉄バスの寺塚山越し路線が運行を始めた。(55番
長丘1丁目、同2丁目、平和1丁目経由で天神方面行)道路事情で中型バスによる運行。天神方面へは野間四つ角経由の路線しかなかったが、この新路線で長住のバスによる出入り口がひとつ増えた。
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